2014-02-19 第186回国会 参議院 総務委員会 第2号
一件目は、昭和三十八年七月十五日、神奈川県平塚市の河野一郎建設大臣、当時の私邸に侵入し、ガソリンをまいてこれを全焼させた放火等の事件。二件目は、昭和五十二年三月三日、都内千代田区の経団連会館に侵入し、拳銃、猟銃を発射して会長室に立てこもった逮捕監禁等の事件。三件目は、平成五年十月二十日、都内中央区の朝日新聞東京本社内で同社社長らと面会中、拳銃を使用して自殺した銃刀法違反等の事件であります。
一件目は、昭和三十八年七月十五日、神奈川県平塚市の河野一郎建設大臣、当時の私邸に侵入し、ガソリンをまいてこれを全焼させた放火等の事件。二件目は、昭和五十二年三月三日、都内千代田区の経団連会館に侵入し、拳銃、猟銃を発射して会長室に立てこもった逮捕監禁等の事件。三件目は、平成五年十月二十日、都内中央区の朝日新聞東京本社内で同社社長らと面会中、拳銃を使用して自殺した銃刀法違反等の事件であります。
それで、河野一郎建設大臣のころに三十一メーターの制限が外されて超高層ビルができるようになったんです。そのときもうコンピューターは非常に高いものでしたから、あるハイレベルな人たちだけがやっていた仕事なわけです。 それで、八一年に新耐震設計法というのができまして、この法律が変わったのは、一九六八年と七八年に東北地方を襲った地震で建物がいろいろ壊れたからということです。
思い起こせば、ちょうどオリンピックの年に新幹線もでき上がったわけですが、当時は河野一郎建設大臣でありました。我々はまだ高校生でありましたけれども、時の一声、ツルの一声で、一日も早く間に合わせ、道路を開通しろと、栗東—尼崎間を開通してもらったのが名神高速道路でありますが、そういうことも思い出しているわけです。
そのとき、当時の河野一郎建設大臣が東京に都政なしと言われたんです。私はルーキーでしたから頭にきまして、文句言いに行きました。そうしたら、河野大臣いわく、おまえさんね、地方から勉強に来ようと働きに来ようと水をしょってくるわけじゃないんだから、東京のように人口がふえたら足りなくなるのは当たり前なんだ、だから東京に都政なしと言ったんだというので、一言もなかった思い出があります。
実は、この多摩ニュータウンの計画は、かつて河野一郎建設大臣がヘリコプターで東京を飛んで、将来の日本の住宅政策が必ず大きな問題になるといって、河野建設大臣のもとで始まったわけでございます。何かの縁だなというふうに思うわけでございます。 私はこの問題を、地元の皆さんのいろいろな要望もあります。
私も、実は若いころ、河野一郎建設大臣が、高速道というのは、距離じゃないんだ、時間なんだという話をされまして、そうだと思いました。しかし大臣、現実には、都内の中は高速道が低速道だと言われて時間を食っている。これを解決するには、やはり三環状なんかを一日も早くやって完成をしていただきたい。
また、昭和三十九年には河野一郎建設大臣が新首都建設プランというものを出して、その当時、建設省や国土庁でもいろいろな観点から検討がなされたと思います。いわばこの時期を論議の時期、こういうふうに位置づけることができると私は思います。 この論議の時期というのから第二期目の段階、すなわち検討の時期というものに移ったのが平成二年の国会移転のあの決議だと思うのです。
それで、当時の河野一郎建設大臣がやはりこのことに関心を持たれまして、建設省もかなり真剣に検討した時期がございましたけれども、残念ながらといいますか、ちょうど河野さんも突然急逝されてしまったということもありますし、それと東京の都市問題が当時、六四年に、昭和三十九年に東京オリンピックがございまして、東京オリンピックに向けて一丸となって都市の整備をやろうということで一生懸命やっていったわけですね。
これは別に問題視するつもりはありませんが、冒頭申し上げました一つの哲学の問題なんですが、私が子供のころ河野一郎建設大臣という方がいらっしゃいました。河野大臣は、歩道のない道はつくらない、そういう政策を表明されたんです。私は子供ながらにすごい建設大臣だと思ったんです。今でも私は非常に高い見識だと思うんです。
当時の河野一郎建設大臣のもとで、いわゆる千日道路と言われて、緊急工事、突貫工事で建設をされた、こういう道路でありますが、昨年一年間で、千四十四件の事故件数ですね。人身事故は百四十件で死者は十二人ということであります。昨年は全国的に少し減ったのですが、ここは昨年はふえておるのですね。事故件数で三十七件、人身事故で十六人、死者は四人ふえております。
昭和三十九年、東京オリンピックのときに、水を間に合わせよう、オリンピックもできない、東京に水がなくなるというので、たしか河野一郎建設大臣のときだったと思います、突貫工事で工事が行われました。結局は、何といいますかちょっと時間差はあったのですけれども、完成をしました。あれから三十二、三年たちました。
私がこの問題について勉強を始めたのは、河野一郎建設大臣が首都移転の閣議発言をした昭和三十九年のときからでありますから、三十三年間になりますけれども、その間一貫してこの問題をやってまいりました。 そこで、月尾先生の方からまずお答えいただくのがいいと思いますが、先ほど来データをいろいろ御説明になった。
そしてそのときには、延べにして自衛隊三十二万人の除雪要員を派遣したということでございまして、またこの本部長、実はこの本部長というのが当時の建設大臣でありました河野一郎建設大臣でございます。そして、なかなか現地にたどり着かない。そのたびに、政府はあなた方を見捨てないというような演説をして、国民を安心させつつ行ったということでございます。
私は、昭和三十九年の河野一郎建設大臣(当時)の閣議での発言以来この課題を追求し続けて参りました。また、地方の理想的形態として、新首都がひとつのシンボルとなり、北海道から沖縄まで、新しい都市と農山漁村が均衡ある発展を遂げ、光り輝く「真珠のネックレス構想」を主張し、あわせて国会においても新首都問題についての発案著として、度々取り上げて参りました。
私がこの問題を言い出したのは、昭和三十九年、河野一郎建設大臣が閣議で首都移転を言われたときからです。そのときに、亡くなられた桑原愛知県知事に呼ばれて、君はこの問題を専門で研究してくれということがあってから始めたんですね。これを言い出したころは、賛成の方は本当におりませんでした。それから昭和四十四年に国会に出まして、四十八年に、当時の建設大臣に建設委員会で質問したんです。
この問題は、実は私も新聞記者になりまして三十二年になるわけでございますけれども、駆け出しのころから問題になっておりまして、私が建設省担当のころも、河野一郎建設大臣が富士山ろくに首都を移転したらどうだ、こういう構想も飛び出したりしまして、本当に相当の期間議論をやっている。しかし、結局議論だけに終わってきているわけなのですね。
私は、この問題に取り組み出したのは昭和三十九年の河野一郎建設大臣の新首都の建設というあのときからでございまして、考えてみれば二十八年間この問題を追求し続けておるわけでございます。そして、自分の政治生活の続く間にこの問題を何としてでもなし遂げたいと思いましてこれを推進してまいりました。 御指摘のように、平成二年の十一月七日に衆参両院で国会等の移転決議がされました。
古くは、昭和三十五年に磯村英一先生が富士のすそ野にいわゆる遷都したらいいじゃないかという提案をなさり、四番にございますように、昭和三十九年には河野一郎建設大臣が一つの提案をなさったということがございます。六番にございますように、早稲田大学の研究会が東北の北土地方へ遷都すべしという提案をなされたこともございます。
○秦野章君 建設大臣、最初に伺うことは、昔ですけれども、河野一郎建設大臣が大臣だったときに多摩川の堤防に道路と住宅をつくれと言ったんだよ。ところが、いろいろ審議した結果それがだめになったんだ。ところが、今考えてみるとかなり先駆的な発想なんですよね。家を建てるのは無理だけれども、道路をつくるということは川を多目的に使うというメリット。これは今でも田舎へ行くと県道とか何かが堤防を走っているんだよ。
実際そういうことで施行されていると言われましたが、二十五と三ないし五では雲泥の差でありますから、これもぜひ改善をお願いしたいと思うのでありますが、これはひとつ建設大臣から、先ほど申し上げましたように三十八年河野一郎建設大臣がおいでになって道路に対する考え方を大きく変えていただいた、そのことが地域の生活そして産業振興に画期的な変化を与えてくれたわけでありますが、この際やはり個人の生活でも雪国の中で大きな